湯船に入ることは日常のものではない

2011.10.21

人間、湯につかると幸せな気持ちがこんこんと湧いてくる。この幸福感には確信などなにもない。ただそこ抜けのような至福のひと時で、それは一定の広さがあれば、もっと深いものとなる。顎の先まで湯に浸かる。すると脱力している自分から抜けたたおやかな波紋が、バスルームいっぱいに広がる様を、なに気なく立ちのぼる湯気の向こうに感じているようである。何も考えない。口を半開きにして、無防備に己を湯にまかせる。まるで宇宙に漂う一個の漂流物のようなただの塊。

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肛門から屁のひとつも出て、泡が背を伝われば幸せ感は絶頂となる。そんな無限人の空問なのである。こんなのは他の部屋には求められないのだ。だから、ユニットバスみたいな狭いのはどうもと、首をひねるのである。たしかに、平均的アメリカ人にとって、湯船に入ることは日常のものではない。二、三度あればいい方だし、今となっては僕もシャワーだけの方が多い。だからこそその分、バスタブに湯を張るということが、格別の意味合いを持つ。たとえば自分を非日常の中に置きたいと強く願う時などだ。